国指定重要文化財 日光田母沢御用邸

国指定重要文化財 日光田母沢御用邸

外から望む3階部分

外から望む3階部分

   きのくに500号記念・時空を越えて出会う和歌山、三回目の特集は栃木県日光市にあります田母沢御用邸を紹介致します。和歌山から遠く離れたこの地にどうして和歌山にゆかりのある建物があるのでしょうか。

 それは我々のお殿様、紀州徳川家に起因します。江戸時代、紀州藩の中屋敷として使用されていた建物が1872年(明治5年)に皇室に献上され赤坂離宮となり、その後火災により皇居が使えない期間の仮皇居として明治憲法は発布されるまで皇居として中心的な役割を果たしました。1898年(明治31年)には解体されることが決まります。その際、中屋敷の中心を担っていた三階建ての部分を皇太子嘉仁親王(大正天皇)の御静養地として1899年(明治32年)日光に移築されることになり、御座所・御学問所・御寝室・御日拝所・御展望室として使用されました。現在の天皇陛下も皇太子時代には疎開先のお住まいとしてご利用なされ、幼少期の記憶の中枢を担う施設であります。

 元々田母沢御用邸の敷地には、敷地全体の1/4(7000坪)を所有していた実業家・小林年保(1848年 嘉永元年生)の別邸がありました。その別邸とつながるように移築されたのが紀州藩の中屋敷であり、これらにその後に増築された建物部分も合わせると1360坪の広さになります。よってこの建築には江戸・明治・大正時代ごとの最高の技術や素材を使って作られていることになります。大きな節目は大正天皇即位(1918年)です。この時期に大規模な増築が行われ謁見所など公的な部分が増築され現在の姿になっています。戦後1954年(昭和29年)に民間事業に貸し付けられ、41年ほど博物館ならびに宿泊施設として利用されていました。その後1996年(平成8年)に公園と施設一体を栃木県が管理委託を受けたのを機に、整備委員会が設立され1998年(平成10年)から改修工事が行われ、大正時代当時の雰囲気を残し、もしくは復元すると共に耐震改修が行われ現在の姿に生まれ変わりました。当時使用されていた素材や技法を取り入れ未来に向けて立派に修復・復元されました。

 これら、田母沢御用邸の中で中核を担う部分が紀州藩の中屋敷であります。3階建ての部分が移築されています。江戸の諸大名屋敷の中でも最も大きく立派な建物でありました。1632年(寛永9年)に現在の赤坂離宮のある場所に建設され、紀州のお殿様が参勤される際に本邸として使われ、上屋敷は当主の屋敷で移築された中屋敷は家族などの住まいとして利用されていましたが上屋敷が火事により焼失したのを機に本邸として利用されました。中屋敷もまた大火に見舞われ現在の移築された部分は1840年(天保11年)に再建された建物の一部となります。度重なる大火の際も再建される時は必ず和歌山から材料を運び、加工し、和歌山から大工さんが上京し建築に携わりました。江戸にあっても建物や素材まで全てそれは和歌山そのものでした。

 紀州藩の移築されたその内部は豪華では無いものの上質な空間装飾がなされています。書院様式と数寄屋様式の違いが階層によって分かります。通称梅の間と呼ばれる御学問所の壁には和歌山の名産で梅の木が描かれた和紙が貼られ、天井の格子は朱色の漆塗りとなっており、どこか故郷を彷彿させるニュアンスを垣間見ました。2階部分はやや天井の低い空間になっていますが奥行きのある和室が並び広がりを感じます。皇室の中でも重要な場所となる剣璽の間(三種の神器のうち、剣と勾玉を奉納する場所)が配置されその隣には御寝室が配置され大正天皇が使用されていました。赤坂仮皇居時代は間仕切りがなく絨毯が敷かれており、明治天皇は会議や食事をする場所として使われていました。普段一般公開されていない3階部分から望む庭の形式はとても優雅であり趣があります。きっとこの場所から望んだ江戸の町並みも秀逸だったと思われます。

 再建されて170年以上を経過した現在もその風格は失われることなく、周囲の自然と共にゆるやかに歴史を刻み、訪れる人を迎えてくれます。和歌山ゆかり建築。和歌山からおよそ6時間、日光の荘厳な山の中にそびえる屋敷。この建物が皇室の中で貴重な位置づけであったこと、紀州藩にとっても大切な場所であったことは述べるまでもありません。幾重の時代を超え、立派に再建なさった栃木県の熱意に感服しました。建物の歴史に沿うように、周囲の自然環境も趣深く、遠い山肌に歴史の流れを感じました。和歌山の山で育った木と、培われた技術がその時代時代の要人を支え、現在は一般の方に公開されている。こんな素晴らしい逸話は和歌山県民、特に建築に関わる者として誇りです。取材当日、多くの観光客に賑わう施設を見て、きれいに整備された庭を歩いて込み上げるものがございました。

【会報誌きのくにH30年2月号掲載】

情報・出版委員会 東端秀典

このページの上部へ