書籍 「匠明」
書籍 「匠明」
「匠明」といえばこの業界では最も古く有名な書物であろう。ただ、名前は知っているが見たことはないという方も多いのではないだろうか?この本は室町時代から安土桃山時代までの日本建築の意匠、寸法体系をまとめた木割書である。当時は木砕(きくだき)と呼ばれていたらしい。江戸時代には類似の木版本が多種存在、流通していたようである。
木割書とは、木材の加工、工作墨をする規矩術とは別に、建物の種類、構造、規模により各部材の寸法や標準的な納まり、意匠等を示したマニュアル、いわゆる教科書である。中でも匠明は建物の種類、規模ごとに分類され、垂木の寸法を基準とする木割書が多いなか、柱の寸法を基準しているのが特徴である。門記集、社記集、塔記集、堂記集、殿屋集、の五巻からなり、それぞれに簡単な挿絵、平面図はあるがほとんどが文字、言葉で表現されている。例えば社記集の冒頭では鳥居の寸法について、「花表木砕の事、一、柱太サ、下ノ間ニ〆壱寸壱分算。上ハ寸算少ク、丸柱ニ可用。」のように書かれていて、現代人には少々難解な書物である。原本(写本)は巻物で幅18㎝、長さは五巻で76.6mにもなる。
その匠明の著者が紀州根来出身の大工、平内正信(へいのうちまさのぶ)なのである。 平内家は根来寺の大工であったが秀吉の紀州攻めによって一時衰退し、正信の父、吉政は秀吉の京、方広寺大仏殿造営に大和から10人、紀州から10人選ばれた20人棟梁の一人として参加、その後秀吉に認められた。慶長11年(1606)紀州藩領主浅野幸長(よしなが)により再建された和歌浦天満宮造営には子、正信と共に当たった。時代は徳川へと移り正信は関東へ下り、日光輪王寺堂行堂等数々の造営に参加、正信は徳川幕府作事方大棟梁に就いた。その後平内氏は幕末まで11代に渡って作事方大棟梁職を努めた。当時は大和大工や他の流派の木割書が流通していたようであるが、平内家の自信と確信が匠明執筆の原動力となったと思われる。そして平内家の技術の伝承と研鑽のため吉政の語ることを正信が執筆、まとめ上げたとされている。明治になって東京大学が所蔵する事となり業界人はもとより一般にも知られるようになった。
1,971年工学博士でありその後堂宮大工12世伊藤平左衛門を襲名された伊藤要太郎先生が研究成果を解説書とともに発刊され、大変読みやすくなり多くの実務者に支持されるようになったのがこの「匠明」である。現在、第十五刷にもなっている。巷で木割書の弊害を憂う意見も散見するが、何百年もの日本の風景が培われたのは、この木割のおかげであるのも間違いないであろう。
【会報誌きのくにH30年5月号掲載】
情報・出版委員 永田佳久