竈山神社
今回は和歌山市和田に位置する竈山神社を紹介します。竈山神社は和歌山電鐵貴志川線沿線にあり、同沿線上の日前宮、伊太祁曽神社とともに「三社参り」の一つに数えられています。
御祭神の彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)は、第一代神武天皇の兄君で大和平定の途中戦傷し、雄水門(現在の水門吹上神社)で雄叫びをあげて崩御され竈山に葬られた、と言われています。今から千年程前の国の法律である延喜式の神名帳に「紀伊国名草郡 竈山神社」と記され、古くから官幣に与る皇室御崇敬の大社でありました。豊臣秀吉による紀州攻めの際には社殿が焼失し社領も没収されましたが、寛文9年には徳川頼宣が社殿を再興しています。近代になると、明治14年に墓域が調査測量の上現在地に画定され、神武天皇の兄を祀るという由緒をもって社殿が整備され、18年には村社から官幣中社に、大正4年には官幣大社にまで昇格を果たしています。
その後昭和13年には国費及び崇敬者の献資を以て、社殿の造替が内務省神社局により行われました。境内地を拡大する造成工事を含め、全ての建物を社格に応じた形で新造する非常に大規模なものでありました。設計は内務省神社局技師の角南隆(すなみ たかし)氏。氏は数多くの神社建築にかかわった建築家で、戦後も明治神宮の復興造営に携わった方です。
神門を中央に、西側に回廊、東側に社務所、広大な敷地の中央奥には拝殿、拝殿東脇には各末社、西北隅には神撰所が設けられています。拝殿より北部には大きさもそれぞれ、入母屋や切り妻の銅板又は檜皮葺と仕様も異なる「昇廊」「幣殿」「中門」「本殿」が昇るように配置されています。本殿より更に北部に彦五瀬命墓(竃山墓)があります。平面図より推測した直線距離でも拝殿から本殿までは40mあり、現地では拝殿のサイドから北部を見上げるものの昇廊の手すりや銅板又は檜皮葺の屋根がやっと見える状態ですが、建築当時の断面図から建物の繋がりがよくわかります。拝殿内部は丸柱や折り上げ天井、虹梁、蟇股へ目が行きますが、下足可能な石敷の土間床やサービスヤードとしての張り出しなど、祭祀に供する施設としての機能性も備えている点が伺えます。柱など主要部分には台湾檜が多用されています。明治神宮の大鳥居を始め、同時代に建築された多くの神社も同じく台湾檜が使われています。江戸末期の境内図を見ると、鳥居を潜り、石階段を上った先に境内地が開かれ、石垣で造り出された割り拝殿が建ち、更に一段高く本殿が位置する内院が石垣で築かれています。この鳥居がほぼ現在の神門の辺りに位置することからも、境内の敷地が造成され広がったことがわかります。
神門手前には、社務所の南側に接続する形で斎館が建てられ、日当りの良い一角に和洋折衷の応接室が設けられています。内部は紙張りの表具壁に、内法長押や床の間状の飾り棚が配され、全体に細く軽快な空間となっています。机や椅子など家具類は当時からの趣きを保ち、宮司さん自ら手入れを施していると聞きました。隣接するグラウンドで遊ぶ子ども達の声聞を聞き、窓越しの木々を眺められるとても素敵な空間ですっかり気に入りました。
子どもの名付けで有名な神社で、私も名前を付けてもらった者の一人です。七五三や初詣で訪れたことがあるものの、戦後廃止された社格制度で官幣大社であった神社(和歌山市内では日前宮と竈山神社のみ)であることを今回知りました。そして、村社から官幣大社まで昇格したのは竈山神社が唯一の例との話から、静かで落ち着いた神社ですが、大きなパワーを秘めているのではと感じました。
【会報誌きのくにH26年4月号掲載】
情報・出版委員 三木早也佳