国宝 瑞巌寺
国宝 瑞巌寺[宮城県松島町]
正式名称は「松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとう せいりゅうざん ずいがん えんぷくぜんじ)」という。天長5年(828)に開創された奥州随一の古刹である。現在の建物は、慶長14年(1609)に伊達政宗が桃山様式の粋をつくし、5年の歳月をかけて完成させたものである。奥州は地理的関係、気候の厳しさから、中央の文化を受け入れることが遅いと考えられている。しかし、これはあくまで一般論であって、時として中央文化を凌駕するものが現れることがある。例えば平安時代末の平泉文化で、その象徴が中尊寺金色堂である。伊達政宗の仙台城および城下町、瑞巌寺、大崎八幡社に代表される奥州桃山建築もこれに当たるものである。
これらの造営の中心になったのは、山城の梅村家一門及び紀州根来の鶴家一門である。そのなかでもこの奥州桃山建築の華を仙台にもたらしたのは、後に彫刻の名人「左甚五郎」のモデルとされる鶴家の鶴刑部左衛門国次であると言われている。
瑞巌寺学芸員の堀野真澄氏に話を伺った。「政宗公は他にもたくさん建造物を造っているが、熊野材を使っているのはここだけである。(近年、紀州の檜であることが科学的に証明された。)当時から熊野神社は広く全国に分布し、奥州でも熊野が「よみがえりの地」であることは知られていて、だから政宗公もわざわざ瑞巌寺には熊野材を使ったのでないかと考えている。熊野から「いかだ」(本当は船だと考えている。)16艘で運んだが、途中で10艘が遭難し、材が足りなくなり節の多い良くない材も工夫して(部屋や部位によって差をつけることで)使っているが、本当は政宗は材を使い切りたかったのではないかと思っている。」
瑞巌寺は日本三景の一つである松島を望む地にある。これは単に風光明媚な名所に立派な寺を建立したということではなく、松島は瑞巌寺を得てはじめて、日本三景となりえたのではないかと、実際その地を訪れてあらためて感じるところである。瑞巌寺は最高の技術を求め、最高の材を求め(物理的な意味での最高ではないかもしれないが。) 莫大な建築投資によってなされたものである。松島の景観とともに、現在においても外国人を含む多くの人々を集め続けているのである。わざわざ岩山を切り開き造営したのも決して無駄ではない。今なら、もっと造成コストのかからないところに作ってしまうかもしれない。しかし、この場所に存在する価値がある。和歌山で言えば、和歌浦天満宮、紀州東照宮がそうである。万葉の時代より歌枕の地として知られていた和歌浦であるが、天満宮、東照宮はその絶景を望む急峻な山の中腹に背中を合わせるように建てられている。和歌浦はこの両宮を得てさらに絶景の地になったということにも思いを馳せた。
松島湾に浮かぶ島(橋で渡れる)に政宗が瑞巌寺に先立って再建した五大堂がある。ここからの眺めは「素晴らしい」の一語である。これも鶴刑部左衛門国次の手になるものである。沿革によると、ここに坂上田村麻呂が毘沙門堂を建立したことが瑞巌寺の前身である円福寺の始まりということになっている。この景観からすればなるほどと納得のいくところである。三間四方の小さな仏堂であるが、軒周りの蟇股には方位にしたがって十二支の彫刻が施されている。彩色はまったく残っていないが、かえって鶴刑部左衛門国次が鑿をふるったであろう彫刻のすばらしさが堪能できる。
瑞巌寺本堂は桁行十三間、梁間は左側九間、右側八間の入母屋造りの大建築である。その白眉は何といっても中央に設えられた「室中・孔雀の間」である。龍・虎・花鳥などこれでもかというくらいに彫刻と、花木・孔雀などが描かれた金地の襖により余白なく埋め尽くされている。
モダニズム全盛期には桂離宮が褒めそやされ、瑞巌寺から連なる日光東照宮が「悪趣味で日本的美意識から外れている。」ものとして貶められる風潮があった。モダニズム末期に学生時代を過ごした私もその一人であった。その後、日光東照宮に代表される桃山建築は「日本におけるバロック的なデザイン」として再評価されているが、あらためて桃山建築の真髄にふれてみると、様式の優劣を超えて、すばらしいものはすばらしいとの感想に至る。その時代の最高の技術者が(そのプロデューサーである伊達政宗も含め)その腕を存分に発揮して作られたものは時代を超えて生き続けるものであることを実感した。この桃山建築を桃山建築たらしめているのが、紀州の大工であることに誇りを感じた。
【会報誌きのくにH30年3月号掲載】
情報・出版委員 中西達彦