時空を超えて出会う和歌山
500号記念特集
“時空を超えて出会う和歌山~日本の「きのくに建築遺産」を訪ねて”
きのくに500号記念特集「時空を超えて出会う和歌山」、連載を続けてまいりましたが、今回は総集編です。連載を通して気づいたのは二つの大きなテーマを内包しているという事でした。それは「移築建築」と「紀州大工」です。この二つのテーマを軸に、建物(書籍)の概要と共に振り返ってみます。
移築された建築
元々は湯浅の「満願寺」「勝楽寺」周辺に平安時代末期(12世紀頃)に建立された仏堂と推定される。建立時は現在より小規模だったが鎌倉時代(13世紀後半~14世紀前半)桁行7間、梁間5間の現在の規模に改築される。1598年豊臣秀吉の「醍醐の花見」を期に京都市伏見区の醍醐寺に移築される。何度か改修されているが「和様」と呼ばれる平安時代の様式は現在も守られている。
元は現在の岩出市、紀ノ川に迫り出した奇岩の上、川面に張り出すように建てられていた巌出御殿であったと推測される(別説もある)。巌出御殿は慶安2年(1649年)紀州徳川家初代、徳川頼宣によって建てられる。宝歴14年(1764年)泉州佐野の食野左太夫に与えられ、大阪市此花区に移された後、原三渓がそれを買い取り大正6年(1917年)横浜三溪園に移築を完成させる。三棟の建物が雁行型に建ち並び、数寄屋建築の名品と評される。
江戸時代に東京都赤坂にあった紀州藩江戸中屋敷が明治5年(1872年)皇室に献上され、仮皇居として使用された。その後明治32年(1899年)中屋敷の中心を担っていた三階建て部分が大正天皇のご静養地として日光の田母沢御用邸敷地内に移され、実業家・小林年保の別邸と繋がるように建築される。江戸時代より何度か焼失しているが、その度に紀州材を取り寄せ、紀州大工の手によって再建される。
紀州大工 鶴刑部左衛門
日本三景、松島の地に伊達政宗が5年の歳月をかけて慶長14年(1609年)に完成させる。造営の中心となったのは山城の梅村家一門と紀州根来の鶴家一門。なかでも後に彫刻の名人「左甚五郎」のモデルとされた鶴刑部左衛門が桃山建築の華をもたらした。同じく鶴刑部左衛門の手による、松島湾内に建つ「五大堂」と合わせて、彫刻の素晴らしさが堪能できる。瑞巌寺造営に使われた木材は全て紀州材である。
慶長12年(1607年)伊達政宗が3年の歳月をかけて現在の仙台市内に造営。瑞巌寺と同じく鶴刑部左衛門が携わる。桃山建築の傑作であり、拝殿と本殿を石の間で繋ぎ一棟とする。日光東照宮の「権現造り」に先行する唯一の遺構である。2016年に美装工事が完工。建物下は漆黒、長押より上は極彩色の彫刻・組物が施される。
鶴刑部左衛門について
鶴氏の家系はあまり明らかではない。根来寺大塔の心柱が立ち上がった明応5年(1496年)、心柱の墨書に「坂本の番匠40人」の一人として「刑部左衛門」という名前が記されている。坂本は根来寺に隣接する集落、番匠とは大工職を指す古い呼称である。また慶長4年(1599年)紀の川市の三船神社社殿が再興された。その棟札に「刑部左衛門丹後守吉次」と記され、坂本には100年にわたって大工職を継ぐ家系があったと想像できる。慶長14年(1609年)、宮城県松島の瑞巌寺造営の記録に紀州の「刑部左衛門国次」が「指図」した、とある(大崎八幡宮の棟梁も勤める)。三船神社の「刑部左衛門丹後守吉次」と瑞巌寺の「刑部左衛門国次」は同じ「刑部左衛門」を称しており、親子だったと想像できる。そして江戸末期に編纂された「紀伊続風土記」の記述から「刑部左衛門国次」と「鶴刑部左衛門」は同一の人物であり、瑞巌寺造営の後、初代紀州藩主浅野幸長に仕えたと考えられるのである。その鶴刑部左衛門は後に江戸へ下り、寛永9年(1632年)江戸幕府の「作事方大棟梁」として登用された。「作事方」は土木建築を統括し、「大棟梁」は幕府の行う建築の設計から工事までを実施する建築実務の最高責任者である。
紀州大工 平内正信
紀州根来出身の大工、平内正信が江戸時代初期に著した木割書。室町時代から安土桃山時代までの日本建築の意匠、寸法体型がまとめられている。門記集、社記集、塔記集、堂記集、殿屋集の五巻で構成され、原本(写本)巻物で幅18㎝、長さは五巻で76.6mにもなる。現在も鹿島出版会より解説書「匠明五巻考」と合わせて出版され、実務者に支持されている。
書籍「匠明」を著した平内正信が携わった建造物で唯一現存している建造物。慶長11年(1606年)紀州藩主、浅野幸長が造営。急峻な階段に優美な楼門がそびえる。楼門の軒は扇垂木であり神社ではあるが禅宗様。楼門をくぐると本殿が鎮座し、桃や瓜などの精巧で色彩鮮やかな彫刻が見られる。
平内正信について
平内正信は天正11年(1583年)根来で生まれた。天正14年秀吉は京都に方広寺大仏殿の建立を発願し、紀州と大和から10人づつ棟梁が集められた。その棟梁の中に正信の父、「吉政」がおり、平内一家は京に上り、吉政は秀吉を祀る豊国廟の造営に当たる。豊臣から徳川へ時代が移り、慶長11年(1606年)には吉政と正信が和歌浦天満宮を造営し、父子の建築技術の神髄を今に伝えている。後に正信は江戸へ下り、湯島聖堂や台徳院廟(二代将軍秀忠廟)造営に携わる。寛永9年(1632年)、日光東照宮に携わった甲良宗広、先述の鶴刑部左衛門と共に「作事方大棟梁」の職に登用される(3人の内2人が紀州大工である)。そして正信は父祖伝来の技術を「匠明」という書物にまとめ、その後平内家は幕末まで11代にわたって作事方大棟梁を世襲し「四天王寺流大棟梁」と称したのである。また取材で訪れた和歌浦天満宮に保管されていた「隅矩雛形図解」という資料は平内家10代目、平内大隅廷臣によるものであった。
本連載、いかがでしたでしょうか。醍醐寺は湯浅のお堂が秀吉に求められ、臨春閣は3人の所有者を経て横浜に辿り着き、田母沢御用邸は普請の度に紀州大工が呼び寄せられました。鶴刑部左衛門は伊達政宗に請われたのち江戸幕府の要職に就き、平内正信は本来秘伝であったはずの技術を書物にまとめ、建築の標準化に寄与したのです。
改めて振り返ると印象に残ったのは和歌山の建築文化が認められ、各地に広がったということでした。“時空を超えた”のは何だったのでしょうか。これらの建築遺産が生み出される元となった、紀州人の研ぎ澄まされた技術、精神ではないでしょうか。私達は今回の連載を通して紀州の偉大な先人に出会ったのかも知れません。現在・未来においても和歌山発の建築文化が各地に発信できることを願いつつ本連載を終了させていただきたいと思います。ここまで読んで下さった皆様、誠に有り難うございました。
最後になりましたが資料提供、アドバイスをして下さった元和歌山県文化財センターの鳴海祥博様、ならびに取材先でご対応していただいた方々に厚く御礼を申し上げます。
【会報誌きのくにH30年5月号掲載】
情報・出版委員会 一同