友ケ島 砲台跡

友ケ島 砲台跡

 

 友ヶ島は、瀬戸内海国立公園の紀淡海峡に浮かぶ沖ノ島(おきのしま)・地ノ島(じのしま)・虎島(とらじま)・神島(かみじま)四島の総称ですが、一般には沖ノ島だけを指して『友ヶ島』と呼んだりもします。友ヶ島の歴史は古く『日本書紀』には、三韓征伐を終えて帰途に着く神功皇后が瀬戸内海で嵐に遭い、海に漂う苫(とま)に導かれてこP1050634の島に辿り着き難を逃れた事から『苫ヶ島(とまがしま)』と呼ばれるようになり、それが転じて『友ヶ島』になったという話が有るほどです。またこの島は、昔から葛城修験道の行場としても有名で、虎島には観念窟(かんねんくつ)・序品窟(じょほんくつ)・閼伽井(あかい)などの行場が存在します。序品窟の少し北側には『禁殺生穢悪・友島五所・観念窟・序品窟・閼伽井・深蛇池・剣池』の文字が刻まれた岩盤があります。これは紀州藩主・徳川頼宣の命によって彫られた『五所の額』というもので、友ヶ島の5つの行場を刻んだものなのですが、海に向かった岩盤に刻まれた跡はこの島の沖からも見え、その大きさには目を見張ります。またこの島からは和歌山城の石垣に使う為の沢山の石が切り出されたそうです。幕末、異人船の渡来と共に大阪湾の防御が必要となり、紀州藩も幕府の命により加太に『友ヶ島奉行』を置き島に藩士を常駐させます。それ以来、紀淡海峡は鳴門海峡・明石海峡と共に国防の要衝となるのですが、18灯台63年に起きた下関事件の賠償で締結された改税約書(江戸条約:1866年)で8基、翌年に締結された大坂約定で5基の西洋式灯台建設の取決めがなされ、大坂約定により友ヶ島にも灯台が設置される事となりました。

 『友ヶ島灯台』は日本標準子午線(東経135度)に一番近い灯台ですが、竣工時は現在よりも25m西寄りにありました。友ヶ島灯台は『日本の灯台の父』と呼ばれる英国人技師R・H・ブラントンの設計によって明治5年に日本で8番目に造られ、今年開設140周年を迎えます。灯台建設には瀬戸内海原産の花崗岩を使い、レンズはイギリス製の第3不動レンズ、光源は石油3重芯ランプで総工費は現在のお金で約3億円、灯塔とレンズ台座が当時のまま使用されています。また光度230万カンデラは現在も全国2番目の明るさを誇り、紀淡海峡の安全な船舶航行に貢献しています。また海から臨むその姿には独特の存在感があり、父のように力強く沖往く船を見守っているのです。

 明治22年、旧陸軍により紀淡海峡周辺の地に軍事要塞が建設され始めました。これがいわゆる『由良要塞』で、淡路島の由良地区と和歌山県下の深山地区・友ヶ島地区の砲台群の総称になります。友ヶ島の西端に位置する『第一砲台』は、当時最も優れた技術を持第二砲台った仏・スナイドル社製の27cmカノン砲を備えており、それは主力の“要撃砲台”として紀伊水道や大阪湾内も射程内に収めていました。『第二砲台』は紀淡海峡を通過する敵艦を真横から砲撃する“横射砲台”ですが、立地上敵艦側に砲全体が露出している為に厚いコンクリートと煉瓦の胸牆と横牆が設けられていました。しかし終戦後に爆破された為に現在は崩壊状態にあり、廃墟となった姿に世の平和と時の流れを感じます。これら2つの砲撃砲台に対し“砲戦砲台”である『第三砲台』と『第四砲台』は異なる特徴を持っていました。両者は友ヶ島山頂の最も高い場所にそれぞれ配置されました。設置された28cm榴弾砲は擂鉢状の砲座から360度の全周射界を持ち、航空機到来以前にあたっては高い防護効果と隠顕効果を兼ね備えた優れた国防施設でした。また第三砲台には煉瓦造りの大規模な地下弾薬施設や装薬庫があり、近くには電灯所や看守衛舎の設備もありました。弾薬を地上に揚げる為に使われたであろう滑車が今もその場所に残され第三砲台ています。『第五砲台』は明治37年に竣工し12cmカノン砲が設置されていましたが、現在は煉瓦造りの弾薬本庫と入口ポーチを残すのみとなっています。

 機密要塞地帯として友ヶ島は地形図にも掲載されず長年一般人が立入る事も出来ませんでしたが、砲台は一度も使用される事無く終戦を迎え、その姿を今に残しています。それらの施設の前に立つと先人達の息遣いが聞こえてきそうな気がします。『友ヶ島砲台群』は2003年に『土木学会選奨土木遺産』に選ばれていますが、これらの価値のある遺跡をこれ以上荒廃させる事無く守り、歴史や自然と共に次の時代に伝えていく事が大切では無いかと今回の取材に当たり深く感じました。

滑車 装薬庫

 

 

 

 

 

 

 

【会報誌きのくにH24年3月号掲載】

情報出版委員  西 祐代

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