武徳殿
武徳殿
街歩きをしているとたまにとても気になる建物に出会うことがあります。地味だけど凛として美しい建物、見るからに人の営みや町の歴史を感じさせる建物、周りの風景にそぐわず独特の風采を放つ建物。私にとって武徳殿は以前から何かしら気になる建物の一つでした。和歌山城下の町は東西南北、碁盤の目のように道があってその方角はほとんど正しく真北、真東を指していますが、和歌山城の南、岡公園内に位置する武徳殿は碁盤の目にそぐいません。道路からみる建物は少し斜に構え、立体感を持って私たちに姿を見せます。
そもそも武徳殿とは平安時代、平安京大内裏にあった殿舎の一つで宮中で競馬や騎射などを観覧する際に用いられた建物でした。明治28年(1895年)に設立された「大日本武徳会」の道場はそれに因んで称され日本各地に建設されます。現存する武徳殿は佐賀や山口など計11ヶ所ありその内9ヶ所が現在でも道場として使われているとのことです。和歌山の武徳殿もその内の一つで前を通りかかると子供達が武道の稽古で汗を流しています。歴史を簡単に紐解くと、和歌山武徳殿は「第日本武徳会和歌山県支部」によって明治38年(1905年)和歌山市真砂町に建設された後、和歌山大空襲を免れ昭和36年(1961年)現在の場所に移築されます。そして昭和37年には和歌山警察義勇会より和歌山市に寄贈され現在に至ります。
建物の外観は重層切妻屋根の桟瓦葺きの本体に入母屋屋根の車寄せが突き出しています。この形は現存する各地の武徳殿もおおむね類似していますが、車寄せ部分が唐破風の場合も見受けられます。屋根を側面から見ると見事な反りがあり、建物全体を躍動感あるものにさせていることが良く分かります。破風板の下には懸魚もあり社寺建築を彷彿とさせ格式の高さを感じさせます。内部は天井高さが3.3M程もあって広大な空間に。柱の外側は板張りで周囲をぐるりと回りその中が56帖の畳敷きとなっています。四隅の丸柱にはおそらく移築時に取り付けられたであろう副柱と方杖で補強されています。入り口正面には神棚が有り建物全体の中心性が保たれているよう見えます。外部を歩くと建物の背後には天妃山(てんぴざん)があります。天妃山は標高20~30m、「紀州の青石」からなる岩山で、建物のすぐ後ろには巨大な青石が突出し迫ってきています。こうして見ると移築時に、なかなか絶妙な配置計画をしている事が見て取れます。
取材後この記事を書くにあたり調べているうち、以前からこの建物が気になっていた理由が少し分かったような気がします。移築され城下の碁盤ではなく自然の岩山に沿った配置計画、100年以上も多くの人々が鍛錬し使い続けられている重み、その起源を平安時代まで遡る歴史、そういったものが道から見える斜め向きの建物から、押し出されて感じられるのかも知れません。
【会報誌きのくにH24年2月号掲載】
情報・出版委員 南方 一晃