紀州高野紙伝承体験資料館 紙遊苑

紀州高野紙伝承体験資料館 紙遊苑

 

【建築概要】

■構造・規模  木造平屋建て 萱葺き

■延床 面積  310㎡

■用   途  体験資料館

■完   成  1997年

 

今回は「紀州高野紙伝承体験資料館 紙遊苑」を紹介します。

紙遊苑は高野山の北麓、北側には紀の川が流れ、近くには、弘法大師空海が高野山参詣の表玄関として創建し、当時、高野山は女人禁制であったため、空海の母が讃岐国から訪ねてこられましたが、参詣することができず、亡くなるまで滞在したと言われる「慈尊院」がある慈尊院地区に位置します。「慈尊院」は高野山への表参道でもある町石道のスタート地点です。また、弘法大師空海を高野山へと導いた2匹の犬を従えていた狩場明神をお祀りしています「丹生官省符神社」も近くにあります。

紙遊苑は元々、弘法大師が厄除観音を奉納された高野山真言宗の「勝利寺」という寺院の住職が住まわれていた建物(庫裡)、長屋門、土蔵、庭園を譲り受け、九度山町が伝統ある手漉き和紙・紀州高野紙(古沢紙)製法の伝承を図る目的と江戸時代の建築物の様式を保存する目的で平成11年4月に国指定の史跡内に復元整備されました。「勝利寺」は慈尊院よりも古く、高野山開創の約100年前に建立されたそうで、高野山奥の院の明遍杉で作られたとされる仁王像を配する仁王門と桁行8.0m梁間7.9mの三間堂としては大規模で中世風の意匠を備えた上質の建物として注目される本堂・地蔵堂・末広がりの「袴腰」と呼ばれる建築様式を持つ鐘楼があり、本堂・地蔵堂・鐘楼は回廊でつながれていて、少し変わったつくりをしています。また、嘉応元年(1169年)、後白河上皇が高野山に参詣された事をきっかけに建立された御幸門もあり、のちに天皇・上皇の玉髪を高野山へ納める使者はこの門から入って宿泊されるようになったと伝えられています。

復元建設された庫裡は茅葺きで紀州高野紙(古沢紙)の製造過程で用いられる道具や用具・紙に係わる資料の展示と紙漉きの手順を示すジオラマを設置してある常設展示室、板の間は、企画展示室として、また、畳の間は生涯学習に係わる場として広く活用できるよう整備されたそうです。後白河上皇の高野山参詣の宿泊所であったので、玄関の横木に菊の紋章がありました。奥には後白河上皇が宿泊されたといわれる部屋もありました。土蔵は展示物や備品等の収納施設として修復され、長屋門は、長屋門の様式を残すと共に内部を手漉き和紙の体験学習が出来る場として整備されたそうです。

唐に渡り真言密教の教えを受けて帰国した空海は、今から約1200年前の816年に高野山を開きます。真言密教の聖地となった高野山では、日々の写経や文書を作るために紙が必要不可欠でした。しかし開山当時、高野山の寺院から都までの道は遠く険しく、紙は簡単に手に入るものではありません。そこで空海が唐で学んだ紙漉きの技術を高野山の麓にあった集落に伝え、現在の高野町から九度山にかけての10集落で紙の生産が始まります。(高野紙十郷)これが紀州高野紙のはじまりです。紙すきの技術は門外不出とされ、婚姻も村同士と決まっていました。原料の楮(こうぞ)を蒸し、皮を剥き、煮込み、黒皮をとり、叩解作業をし、さらに不純物を取り除いた楮と水とトロロアオイの粘液とをかき混ぜ、漉いて、天日に干して、非常に強度があり、傘紙・合羽・障子紙・提灯などに使われた紀州高野紙が出来上がります。

私たちは漉く作業から体験をさせて頂きましたが、なかなか均等な厚みにするのは難しく、南方委員長は失敗されていました。原料はかなり高価で事前の準備も大変手間が掛かりますが、A3サイズなら、400円と破格で紙漉き体験ができます。先人の培ってきた知恵や文化を学び、歴史にふれる事のできる施設であります。

近くにはユネスコの世界遺産となっている「慈尊院」・「丹生官省符神社」・「町石道」や以前紹介した「真田ミュージアム」もありますので一度訪れてみてはいかがでしょうか。

【会報誌きのくにR5年2月号掲載】

情報・出版委員 堀内弘樹

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